その髪型は / 麻婆童子さん


 ――それは遠い記憶のひとかけら。

 ――湊斗光の、幸せのひとかけら。


+ + +


「光」

 いかめしい顔で名を呼ぶ義兄に、光は訝しげな視線をなげかけた。

「なんだ景明。いまはおれが話をしているのだぞ」

 掃除道具、それも箒というのはどうしてああも戦闘意欲をそそられるのか。ひとたび手にしたならば振るわずにはいられない。あれはきっと人の業なのだ。劔冑よりも刀よりも古から、人の性に埋め込まれた本能なのだ。

 ……などといったところで義兄が同意するはずもないことは光とてわかっている。

 だから、今日はいかにしてそれを手にするに至ったか。
 放課後の掃除の時間という、倦怠感溢れる時間がいかにして痛快な様変わりをみせたのか。数人の男子を箒の柄ごと宙空へと舞わすに及んだか。
 それらを情景描写たっぷりに語っていたところだった。

 いい気分台無しである。
 学舎帰りの光と同じく、仕事帰りの義兄だが、この朴念仁に面白おかしい話をしろといってもできる道理がない。だから仕方なく――というにはいつものことなのだが――光が語っているというに。

 義兄が話の随所に口を差し挟んでくること自体は珍しくもないが、いつもならば益体もない突っ込みばかりだ。
 華麗に無視を決めて話を続けるのだが、今日ばかりは勝手が違う。
 名前を呼ばれた以上、応じないわけにいかない。
 乙女(いいおんな)のプライドがそれを許さない。

「景明」

 道に立ち止まった義兄をみて、光は腰に手をあてた。
 斜め四十五度、両足を肩幅よりやや広く踏みしめ、見上げる風に景明をみやる。
 いわゆる乙女のポーズだ。学生服姿なのが様にならないが、あと数年もすれば立派な淑女たる己に相応しい服飾を手にすることが叶うだろう。

 今でこそ『色々と足りない』が、それも少しの辛抱だ。
 みていろ母。

「……光」

 義兄はいかめしい顔のままゆっくりと歩みを再開し、光の前に立つ。
 そして指先をゆっくりと差し伸ばした。
 頬へと。

「な、な、な――」

 先日考案した乙女のポーズは早くも撤退を余儀なくする事態に迫られた。
 義兄のふしくれだった指が頬に触れているのだ。
 無論不快なわけではないが、夕餉どき、それも人の行き来が激しい往来だ。そして光は花も恥らう乙女なのだ。

 義兄の指は頬からゆっくりと進んでゆく。やがてひんやりとした感触が耳の下に触れたとき、光は小さく身を竦ませた。気付かれない程度にわずかに。
 
「か、景明。乙女のポーズを会得したおれが魅力的なのは重々承知しているが、場所が場所だ。し、しばし待つがいい。いま、この道を歩む全ての人類を全員叩き散らしてくる故、それから――」

「どうした」

「う、うむ。みなまでいうな。おれは別にかまわぬ。かまわぬのだが、ここで今すぐというにはあまりにもだな……景明も、そう思うだろう?」
 
「髪はどうした」

「そそ、そうかっ。『神』すらも見届けることを許さぬというのだな。さすがだ景明。おれもちょうどそう思っていたところだ。では少しの間待つがいい。無粋な神をもその座から引きずり倒してくれよう――」

「どこへいく」

「あう」

 移動する瞬間を制される形で、はっしと髪先を掴まれてしまい、がくんと後頭部が下がる。
 勢いのまま、光は己が身体が背後へと倒れてゆくのを感じた。


+ + +


「いいか景明。いかにおまえといえど、乙女の髪を無造作に掴むことは許されぬ。あまつさえ路上に引き倒そうとするなど言語道断」

「……その結果、空中反転蹴(オーバーヘッドキック)を決められる意味がわからないのだが」

 片手をこめかみに当てたままよろよろと立ち上がる義兄に、光は剣呑な瞳をぶつけた。

 思いがけない背後への引力に、瞬時に身体を丸めて上空からの回転蹴り。朴訥な義兄の頭部に踝を叩き込んだ反動を利用し、見事な着地。

 完璧な乙女ゆえに為せる技なのだ。

「……それで、髪を一体どうしたというのだ」

 ふらつきながら問う義兄の様をみながら、光は後ろ髪を無造作に掴んだ。
 いつのまにか結っている髪がとけかかっていた。おそらくは掃除の時間のアレが原因なのだろう。結い紐が緩んでいたのだ。
 光が紐を引っ張り解くと、髪は一瞬ふわっと広がり腰の後ろあたりまでその勢力を伸ばした。

 それにしても、である。
 指摘してくれようとするのはありがたいが、突然触れてくるのはマナー違反だ。乙女条約に大きく違反している。
 まったく、まぎらわしい。

「別にどうもしない。ただ緩んでいただけだ」

 紐を口にくわえて、両手でさっと髪をまとめる。そして小指の先で紐をつまみ、髪を一束ねへ――。

「む」

 できなかった。
 紐がするりと指から逃れて地へ落ちた。

「おのれ。光を愚弄するか」

 踏みつけたい衝動を抑えて拾い上げ、砂を払う。そして再挑戦。

「……む」

 再失墜。

 よし。よくわかった。
 貴様はおれに喧嘩を売っているのだな。

 光が紐を摘んで不敵に笑うのをみて、

「貸してみろ」

 義兄が取り上げた。
 そのまま背後へと回り込むと、先ほどとはうってかわって優しい手触りで光の髪をまとめはじめた。

 ゆったりとした時間が流れた。
 心地よい、と思う。
 髪を他者に触られることは少なからず不快感を伴うことが多いのだが、この義兄だけは別だった。
 なんというか、形容しがたい心境になるのだ。

 こちらをみながら微笑ましそうにすれ違ってゆく顔見知りの住人の視線が苛立たしいことも、なんだかどうでもよくなってしまうほどに。   

「景明。おれの髪をどう思う」

 だからつい聞きたくなった。
 光の髪に触れてどう思うかを。
 綺麗な髪と誉めるだろうか。手入れが行きとどいると感心するだろうか。よもやうなじをみてときめくなどということはあるまいが。

「光。おまえの髪は」

 こくり。
 小さく喉をうった音が聞かれてはいないだろうな――そんなことを考える己を不思議に思う。

「……なんだ? 景明」

「いつも統様にやってもらっているのか」

「ははは」

 いきなり不愉快な話になった。
 気付けば、義兄の腕をとって豪快にブン投げていた。

「さすがだ景明。ここからおれの気分を地の底まで貶めることはおまえにしかできないだろう」

「むう……」

 よろめきながら立ち上がる義兄。どうやらまだ挑戦する気らしく、紐だけはしっかり握り締めている。
 もっとも、光のほうはといえば、もうなんだか全てどうでもよくなってきていたが。

「ふん……母は世話焼きだからな。毎朝ではないが、させてやっている」

 髪に義兄のぬくもりを感じながら、ぽつりと呟く。
 『させてやって』という部分を強調しながら。

「切ることを考えたことはないのか」

「ないな。おれはこの髪型を気に入っている」

「そんなにも統様のことが」

「……景明?」

「冗談だ」

 髪型の理由。
 そんなことをこのタイミングで訊かれるとは思わず、光は妙な心地になる。
 無論、母と似た髪型にしたい、などという怖気の走る話などでは断じてない。

 だが、それとは別に、思うところはある。
 そしていまなら、それとなく訊き返せるのではないか、と光は言葉を紡ぐ。

「景明。おれは母を好まぬ」

「そうか」

 優しい手つきがわずかに首筋に触れた気がした。

「だが父は……母を愛していたのだろう?」

「……ああ」

 わずかに遅れた返事。一瞬だけ、手が止まった気がした。
 ――やはり。
 小さな確信を、光は己がうちに感じた。

「ゆえにおれは髪を切らぬ。鬱陶しかろうと、手間がかかろうと、光はこの髪を切ることをせぬ。いつか父が光を見て、一目でわかるように、この髪を愛そう。父の愛した髪を、光も愛そう」

「光……」

 数瞬遅れた義兄の呟きが妙にくすぐったい。
 我ながらなにを言っているのだ、と思わなくもない。
 だが、伝えたいことは伝えた。
 このどこまでも鈍感な『義兄』はどう感じたのだろうか。

「反抗期か」

「……ッ……かぁ〜げ〜あきぃ――――――――!」

 乙女の回し蹴りが、夕焼けの下に炸裂した。


+ + +

* * *


 今日何度目かになる強烈な蹴りをくらって、湊斗景明は完全に千鳥足だった。

「たかだか髪を結わうだけで随分な時間を失した。帰宅するぞ景明。なにをふらふらとしている」

 憮然と横を歩く妹はどうにも不機嫌だった。
 年頃の娘らしからぬ強烈な足捌きはなんだか将来が心配にならないでもない。
 特に自分の身に対して。

「景明」

「なんだ」

 妹は背に揺れるポニーテールに触れながら、

「その、だ。……すまぬな」

 と。
 小さく呟いた。
 夕焼けのせいか、その顔がひどく赤く染まってみえた。

「ああ」

 それだけ返して、帰路へと歩みを進める。
 
 景明は思う。
 妹が先刻言っていた言葉を思い出しながらも、思う。

 父が愛した髪を愛する。
 それは事実なのだろう。
 母を――統をあまりよく思っていないのも、残念ながら事実だろう。
 だが、それでも景明は思うのだ。

 光は、母をも愛しているのだと。

 決して言葉に出すことはないだろう。
 態度に表すこともないだろう。
 だが、それでも――。

「……景明」

「ん」

「なぜ、光の頭をなでる」

「つい」

「ついか」

「ああ」

「ならば仕方ない……が。光の乙女な髪型が乱れた。家に帰ったらもう一度結いなおせ」

 そんな会話をする。
 それを聞いて景明は、

「ああ」

 と返事をする。
 そして優しく微笑む。

 不遜な『妹』は、はたして気付いているのだろうか。
 おまえの愛する乙女な髪型は。

 幼い日に、おまえの母が――統様が、贈ったのだということを。


* * *


 ――それは、湊斗景明の幸せのひとかけら。

 ――遠い記憶の、ひとかけら。